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歴史に if はないけれど、、、CHINESE TEA BLOG

 中国茶にまつわる、if について思いを巡らせてみることは、お茶好きの皆様には興味深いことかもしれません。

1. オランダ東インド会社が、緑茶の供給源として、日本を第一候補としていたら?
2. 中国がアヘン戦争に勝利し、アヘンの流入を食い止めることができたとしたら?

東インド会社の東アジアへの大航海

 ヨーロッパで入手できない野菜などの商品作物はいくつかありますが、代表的なものとして、香辛料が挙げられます。胡椒等の香辛料、特にグローブとナツメグはインドネシアでしか取れず、インド商人・イスラム商人、さらに、ベネチア商人により陸路でヨーロッパにもたらされてきました。

 16 世紀から 17 世紀にわたり、ポルトガル・スペイン・イギリス・オランダによって、直接取引および貿易独占が争われ、アンボイナ事件( 1623年 )以後はオランダの覇権が確立します。オランダ東インド会社は、さらに進めて、イギリス東インド会社がインド以外から撤退するのと並行して、日本・台湾に商館を設置し、日本・中国との貿易を独占してゆきます。

 同じ時期( 1654年 )に、オランダ西インド会社は、現地住民の反乱を収拾できずに、ブラジル植民地との砂糖貿易から撤退しました。砂糖よりも香辛料の利潤を選択したわけです。

 しかし、17世紀後半、イギリス・フランス植民地での香辛料移植栽培開始とヨーロッパの香辛料需要正常化( 香辛料価格が下がってくると無意味な浪費がおこなわれなくなる。)などにより、香辛料相場が暴落します。

 東アジアにとって、17世紀を帆船力に支えられた、海路による大量配送営業の時代と呼ぶならば、18世紀は植民地経営の始まりでした。
 オランダは、インドネシアでコーヒーや砂糖などの栽培を始め、単にモノを動かすだけでなく、栽培し生産するようになります。オランダは、飲料としては、硬水でも味わえる、コーヒーに注力していました。イギリスよりもヨーロッパ大陸のほうが硬度が高めなので、イギリスほどには茶に固執していなかったのでしょう。

 そして、19 世紀初頭、蒸気動力軍艦の運用開始を経て、東アジアの植民地経営が本格化します。

1. オランダ東インド会社が、緑茶の供給源として、日本を第一候補としていたら?

 17 世紀当時、東アジア貿易はオランダが覇権を握っていました。そして、当時は世界中で中国と日本だけしか、茶を供給できませんでした。日本は長崎にてオランダとのみ交易していました。

 18 世紀に発生した、着色緑茶の問題は、後日の日本茶輸出にも現われましたから、日本からの輸出が継続していたら、着色が原因の緑茶需要後退は、中国茶の場合と同様に起こったと思います。しかし、軟水の日本では開発の必要性がなかったこともあるでしょう、青茶・紅茶の開発はおこなわれていませんでしたので、スムーズに紅茶に切り替わることはなかったでしょう。( 日本には、明治時代にヨーロッパより紅茶がもたらされました。)

 イギリス人が、緑茶も紅茶も同じ茶の葉からできているということを知るのは、アッサム種発見・紅茶生産開始の後、19 世紀( 1843 年 )のことです。

 従って、日本では当時紅茶が開発されていませんでしたので、イギリス上流階級から少しずつ庶民に広まってゆく時期に、緑茶需要が減退し、そのまま、イギリス庶民にも他のヨーロッパ諸国と同様に、他の飲料( コーヒー、あるいは、チョコレート・ココア )が広まることになったかもしれません。

2. 中国がアヘン戦争に勝利し、アヘンの流入を食い止めることができたとしたら?

 火薬はシルクロードを通じて中国からヨーロッパに伝わったものの、蒸気動力船は中国に伝わっていませんでした。

 蒸気動力は圧倒的な軍事技術力としてアヘン戦争開戦( 1840 年 )の決心を促したことと思います。従って、産業革命前後が大きな分かれ道になります。綿産業への蒸気機関利用実用化により、新興産業資本家が莫大な利潤を上げ始めるのは 1789 年、木製蒸気船で大西洋を初横断するのは、1819 年のことです。

 では、産業革命がおこる前の段階で、アヘンの密輸を完全に止めていたらどうでしょうか?

 新興産業資本家により、アヘンの密輸が始まるのは、18 世紀のことです。中国にてアヘンの喫煙は既におこなわれていましたが、1800 年前後から急増します。イギリス製機械製造綿製品の生産拡大により、インド手工業綿産業が壊滅し、その失業と飢餓の中で、植民地経営の一環として、イギリス植民地インドで、中国向け輸出商品として、けしの大量栽培が始められました。

 当時イギリスを含むヨーロッパでは、アヘンを液状で経口摂取し、薬用として広く用いていましたが、経口摂取はアヘンの効果が穏やかにあらわれたことから、中毒者が蔓延することはなく、社会問題になることはありませんでした。もちろん、禁止されていません。一方、中国では、漢方にある引煙法がアヘンと結びつき、中毒者など深刻な被害が出ていました。( アヘンの喫煙は、その後中国からヨーロッパに伝わります。)この摂取方法を誤ったことによる悲惨な状況には、イギリスも気が付いていたと思います。それは、開戦時のイギリス議会投票に表れています。

 2. は、新技術により軍事力において中国が劣勢になる前、つまり、40 年早く「 林則徐 」が 生まれていたら、という if と同じです。当時は清朝末期にあたり、役人・人々の堕落、もと明朝官僚など反体制派の資金源の必要などが、アヘン密輸を助長していました。

 アヘン戦争は、イギリス海軍が蒸気動力木製軍艦 16 隻を含む約 50 隻足らず、2 万人ほどの陣容でしたが、中国軍の多数の帆船でも歯が立たず、砲台を破壊され、勝敗が決まります。


( 東洋文庫所蔵より引用 )

 アヘン密輸は、イギリスに蒸気動力軍艦がなければ当時の中国軍事力で止められただろうし、中国国内で密輸によりアヘン需要が急拡大していなければ、イギリスも何もないところでアヘン解禁を中国に強いることはなかったでしょう。


 既にアヘンの需要・供給が拡大しつつある中で、最新軍事技術で圧倒できるようになったということが、アヘン戦争誘引になったということは言えると思います。



 アヘンの流入がなければ、中国が輸入したいモノはありませんでした( 「 地大物博 」1793 年 )から、当時の最新軍事技術である、蒸気動力軍艦などと紅茶を交換できていたかもしれません。
 これは、ちょうど、軍事的に劣勢になる前に懐柔政策に茶を用いることができた、遊牧民族と軍用馬を交換した事例と同様の交易関係になります。

 日本で最初のスクリュー式木造蒸気船 咸臨丸が徳川幕府の手により購入され、就役したのは、1857 年のことでした。



 歴史的に見れば、同時期のインドアッサムでの大量栽培開始により、安価なインド産紅茶が急拡大し、中国からの紅茶輸入は減少し続けます。一方、中国は、アヘン流入拡大が継続し国家の財政圧迫、国民生活の堕落・破綻が続きます。

 アヘン戦争での勝利がなくとも、安価なアッサム紅茶をベースにして、紅茶はイギリスで普及したものと思います。
 コーヒーに比べてカフェインの含有量が少ないことから覚醒効果には劣るものの、健康維持の効果に富むと考えられる紅茶がイギリスに伝わったことは、イギリス庶民にとって生活の質を向上させたことでしょう。

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